2004年09月10日

無知は罪

無知は罪。無知から生まれる偏見。これは本当に悲しいことだと思う。自分の狭い世界がすべてだと妄信し、異質を排除しようとする愚かさ。これらは、ものを知らないことに起因する。

宗教は決して冒されてはならないものだと云う。だから異種の宗教が出会うとき、多くの忌まわしい争いが起きてきた。十字軍。異端審問。魔女狩り。もちろん、宗教に限ったことではない。文化や人種が違えば、その時点で人々は猜疑の目を向ける。何故か。そう、相手を理解していないからだ。

相手をよく知ることがこれらの解決手段となる。つまり、知るという行為はそれだけで平和に繋がるのだ。一定の理論に基づいて体系化された知識と方法、つまり学問を学ぶことは人類の義務でもあるのではないだろうか。

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2004年05月07日

卒業式の歌

もう5月にもなり、いまさら卒業式もないだろうと思うが、この「卒業式の歌」は、私が小学生の時に歌ったものだ。1~3年生、4・5年生、卒業生、先生、全員などのパートに分かれていて、パートごとに交代しながら歌うようになっている。当時は、何でこんな大変なことをしなきゃならないのかなぁ、とも思ったが、今では風呂場で鼻歌を歌うぐらい気に入っている。もちろん小学生の時に歌っただけなのでかなりの部分は忘れてしまっているのだが。何でこんなに気に入っているか自分でも良くわからないが、美しいメロディーの曲だとは思う。

最近では、卒業式で使われる曲は生徒達に選ばせたり、今時の曲を採用するところもあるらしい。歌詞が分かりづらい「仰げば尊し」や「蛍の光」だけではちょっと堅苦しい感じがするが、流行りの曲と云うのはどうなんだろう…? 卒業式で歌うということが特別であって、今時の曲だとしても、私のように20年後でも心に残る歌になるんだろうか。まあ、荒れた学校ではピアノの伴奏だけが流れてまったく歌声がないような学校もあるそうなので、それに比べれば随分マシか。

つい最近、インターネット上で「卒業式の歌」の歌詞と実際の音声を見つけた。興味を持った方は聴いてみて欲しい。楽譜も実家の押入れあたりにあるだろうから、今度探してみるかな。

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2003年11月28日

レトリック

レトリック(rhetoric)はレポート作成などに欠かすことができない技術であるが、日本ではあまり重要視されていないようだ。アメリカなどでは学校で必ず習うと聞く。それだけ重要視されているのだ。実際に、社会に出れば報告書などを書く機会も増える。しかし、レトリックを習っていないと適切な文章を書くことが難しい。

私は論文やレポートなどを作成するにあたって、学生のころから木下是雄著の「理科系の作文技術」を愛読している。文章を書くための技術がこの小さな書籍にぎっしりと詰まっている。できれば、学生であるうちに読んでおきたい良書だ。しかし、最近では少々物足りない。川喜田二郎著の「発想法」なども試してみてはいるが、これはもともとレトリックとは異なる。誰か良いレトリックの教科書を知っているならば、教えて欲しい。

Posted by Foota at 15:09 | Comments (1)

和書でレトリックは期待できないので、やっぱり洋書になるのかな。となると、このへんかなぁ。

Classical Rhetoric for the Modern Student
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0195115422/footawwwservi-22

Posted by: Foota at 2003年11月28日 15:22

2003年02月11日

生きる力

二次方程式など生きる上で必要ないと主張する人がいる。果たしてそれは本当なのだろうか。

二次方程式が生きる上で必要ないと言うならば、どんな古典文学も必要ないし、言葉が聞けて喋れるなら無理して外国語なども覚えなくてもよいことになる。つまり、上記の主張は、およそ文化というものは生きる上で必要ないと言っているようなものだ。このように述べると、「いや待て、日本人にとって英語はこれからの国際社会で必要だし、古典などの教養もいる。だけど、二次方程式なんて、何の役に立つというのか?」と聞こえてきそうだ。

断言しよう。二次方程式を含む算数・数学は、人間の考える力を鍛える上で非常に実用的なものなのだ。考える力は直接生きる力に繋がる。考える力という抽象的な事柄は扱うのが難しいので、人はすぐに具体的な「何か」に置き換えようとする(特にマスコミにその傾向がありそうだ)。しかし、これを具体的な例だけで説明することは大変難しい。

数学は科学を語るための言語でもある。そして、科学のそれぞれの分野(化学・物理・生物など)は、相互に関係し合っている。ところが、現在の小学校・中学校で扱う科学(理科)は分野で細切れになっており、相互の繋がりがほとんどないという。その上、それらを語り合うための言語である数学(算数)についても学ぶ分量が絶対的に減らされている。これでは、それぞれの繋がりを見出すことすら難しい。

人類が数千年かけて培ってきた、科学・数学を含む文化を吸収せずに我々はどのように向上していくというのか。人間は向上心を持ち、考える力をつけることで進化してきた。しかし、人類の持つ知識を学ばずにどのように進化しようというのか。縦令、自らは考えているふうを装っても、知識の土台がなければそれはせいぜい「車輪の再発明」で終わるのが関の山だ。考えない・学ばない人間はただ単に生きているというだけである。そこから何が育つというのか。澱んだ溜池に浮かぶ枯れ枝と一緒だ。そしてその場で朽ちて沈んでいく。

ここでの趣旨は、数学を学べということではない。もちろん数学を学ぶ必要はあるが、それだけのことではないのだ。学問はそれぞれ相互に関連がある。だから、数学だけでなく古典や外国語を含む学問(延いては文化)を学ぶことは、すべてにおいて意味があるということを言いたいのである。そして、これを実践したときに、本当の生きる力が得られるのではないだろうか。

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2002年04月20日

ゆとり教育

完全学校週五日制を謳った文部科学省の「ゆとり教育」が実施された。賛否両論あるが、どこが良くてどこが悪いのかはっきりしない。実際のところどうなのであろうか。

この週五日制、「ゆとり」の中で「特色ある教育」を実施して、自ら考える力をつけて「生きる力」をはぐくむために必要らしい。もし、私が学生の頃に実施していたら遊ぶ時間が増えて喜んだかもなぁ、とは思うが、それで「生きる力」が得られるとは思えない。この制度では、週五日間の授業にたくさんのことを詰め込むか、学ぶことが減るかのどちらかではないだろうか。「ゆとり」なら後者の学ぶことが減ることになるのだろう。

また、ゆとり教育と聞いて、まず槍玉に挙げるのが円周率が3になったことであろう。学ぶことが減るならそうしないとやってられないからだろうか? しかし、文部科学省の言い分は少し違うみたいだ。授業では円周率は3.14として教えるが、およその面積を見積もるなど目的に応じて3を使っても良いとするらしい。概算としてならそれもありか。だが、目的が円の面積なら3.14を使うことになるのか。他にも、台形の面積の公式を教えなくなることについては、「正方形、長方形、三角形、平行四辺形の面積の求め方」から、台形の面積を導く方法を教えるらしい。ただの公式の暗記ではなく、実際に自分が工夫することにより面積を導くことが重要であるといっているのだ。

ふむふむ、それは確かに大事なことだろう。だが待てよ、本当にそう教えるつもりなら、今までよりも授業数を増やさないとやれないではないか。もしくは、教員の質を非常に高くするかである。しかし、今の制度で劇的に教員のレベルを上げるすべは見当たらない。

結局、週二日の休みに、親である我々が教育をすることになるのだろうなと、9ヶ月の娘を眺めながら考えている。

※ ゆとり教育を考えるにあたって、文部科学省のウェブサイトにある、学習指導要領新しい学習指導要領について、および、Mainichi INTERACTIVE 時代の風に掲載されている榊原英資氏の学力低下招く「ゆとり」教育を参考にさせていただいた。

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